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アルジェント研究会

アルジェント研究会​のご紹介

 アルジェント研究会は、イタリアの映画監督ダリオ・アルジェントの作品を中心に広く映画史、映画理論を研究するために2004年に結成された研究会です。

 

 年に数回開催する研究会では、多角的なテーマを設定して、ダリオ・アルジェントの作品及び関連作品の分析と解説を行っています。ダリオ・アルジェントの映画に興味がある方であれば、参加資格は問いません。研究会はどなたでもご参加いただけます。お気軽にご参加ください。

 

 

ダリオ・アルジェント

 1940年9月7日、ローマ生まれ。母親のエルダ・ルクサルドはブラジル人の写真家、 祖父は映画配給業者、父親のサルバトーレ(「オペラ座/血の喝采」撮影中に死去)と弟のクラウディオは映画プロデューサーである。家には映画俳優やモデル が出入りしていたので、自然に映画に親しみ、宿題も撮影所ですることが多かった。このような環境で育ったダリオが映画監督になるのはいわば宿命だったかも しれない。ダリオの最初の記憶は女優ソフィア・ローレンの膝の上に座っていたことだという。家のあちこちには父が関係した戦前戦後の様々なスチール写真が あり、ダリオは映画少年、映画青年となっていった。

 

 ダリオには、長女で「フェノミナ」「デモンズ」等に出演し、現在はデザイナーのフィオーレ・アルジェント、そして、女優ダリア・ニコロディとの間に、次女で女優のアーシア・アルジェントがいる。ダリア・ニコロディとは長いあいだ公私を共にする仲であった。

 

 ダリオは映画評論家からキャリアをスタートさせた。学生時代から映画専門誌を読みふけり、映画館やシネ・サークルでおびただしいフィルムに接し、映画評を新聞や雑誌に寄稿、ローマの日刊紙パエーゼ・セラの映画批評を担当した。 その後、プロデューサーだった父、サルバトーレの依頼により、1967年にベルナルド・ベルトリッチと共同でセルジオ・レオーネ監督の「ウエスタン」の原案を書く。それを皮切りに、マカロニ・ウエスタン、アクション作品など、様々 なジャンルの脚本をこなし、娯楽映画の脚本家として名をなす。とりわけ「ある夕食のテーブル」(1968)の脚本が名プロデュー サー、ゴッフリード・ロンバルドの目にとまり、監督としてのデビューのきっかけを得た。

 

 彼の才能はサスペンス・ホラー映画で真に発揮される。彼は1969年にサイコスリラー「歓びの毒牙」で映画監督デビューを飾り、興行的成功をおさめる。以来、「わたしは目撃者」「四匹の蝿」など、一貫して同様のジャンルの作品を監督し、当時、イタリアのヒッチコックとも呼ばれた。アルジェントとしては珍しい歴史ドラマ、ッグ・ファイブ・デを撮ったあと、75年の「サスペリア2」ではシッチェス国際恐怖映画祭でグランプリを受賞する。1977年の「サスペリア」で超自然的なテーマの作品にも進出、続く「インフェルノ」の2作で独自の世界を構築する。「サスペリア」の成功を経て、プロデューサーとしての活動も開始。ジョージ・A・ロメロ監督の「ゾンビ」の制作費を集め、ヨーロッパでの配給権を得た。

 

 彼はまた、ランベルト・バーバ監督の「デモンズ」やミケーレ・ソアビ監督の「デモンズ3」などの制作者をつとめている。「シャドー」では本格的な推理劇、ヒロインにジェニファー・コネリーを起用した「フェノミナ」では華麗なホラーと、観客を次々に魅了、続く「オペラ座/血の喝采」ではイタリアの伝統であるオペラを題材に、重厚な映像を創造した。ジョージ・A・ロメロと再び組んだオムニバス「マスターズ・オブ・ホラー/悪夢の狂宴」ではエドガー・アラン・ポーの「黒猫」を大胆に脚色、アメリカで撮った「トラウマ/鮮血の叫び」では娘のアーシア・アルジェントをヒロインに起用し、新境地を開く。引き続きアーシア主演の2作「スタンダール・シンドローム」「オペラ座の怪人」でも新しい分野にチャレンジした。「スリープレス」では初期の作風である推理ものへの回帰を試みている。

 

 警察による集団捜査を描いた「デス・サイト」の後、魔女三部作の三作目「サスペリア・テルザ 最後の魔女」を完成させる。「ジャーロ」「ダリオ・アルジェントのドラキュラ」でもそのイマジネーションと強烈な個性は健在である。日本においても、ほとんどの作品が劇場公開され、熱狂的なファンが全世界にいる。

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